『女の生き方教えます』は元ミス日本という、いかにも村西さん好みの冠を明かにした作品であると共に、その後も卑弥呼と行動を共にする日比野正明監督が撮った因縁の作品である。

 当時、ダイヤモンド映像でパッケージ写真を数多く撮っていたカメラマンのI氏に、90年当時を振り返ってもらった。
 I氏によると、日比野監督はダイヤモンド映像の専属監督であると同時に事務的な仕事もこなす村西さんの片腕だった。
 日比野氏は、どうも卑弥呼におか惚れだったらしく、彼女の御機嫌を取るためには何でもやるという態度だったらしい。
 ダイヤモンド映像自身が、「パワー・スポーツ」という別名称で写真集の発売などにも手を出していたため、あまり雑誌のグラビアなどに卑弥呼を登場させないという傾向があった。
 その状況下でミリオン出版の『URECCO』だけが巻頭グラビアで卑弥呼の撮影をやっているのだ。
 これには、『URECCO』のメインカメラマンがI氏であったがために実現したらしい。


 当時の『URECCO』中川編集長は、『URECCO』降板後はディスコ専門誌『ヘヴンスドア』を創刊し、現在は女子校生の新感覚雑誌『egg』の編集長を勤めている。

 中川氏は、「卑弥呼は、がめついとか、態度が大きいとか、悪い噂が業界内に流れてたけど、そんなことはなかったよ」とフォローしていた。奇妙な因縁があり、『ヘヴンスドア』時代に取材に入った銀座のMーカルロと神楽坂のツインスターで偶然、卑弥呼と再会するようなこともあったらしい。
 「男だったら、絶対に〃やりたい〃って思う。それほどイイ女」というのが実際に卑弥呼に会った中川氏の印象である。
 ところが当初の撮影予定の日に、卑弥呼はドタキャンを起こした。
 マネージャーとして立ち会う日比野氏はオロオロしながら卑弥呼を待つ。結局、日比野氏は卑弥呼の自宅まで駆けつけ、後日改めて撮影をセッティングして、この件はことなきを得た。
 実際に、卑弥呼は、あまり体が強い方ではなく、本当に急病で倒れていたという。後日、撮影は無事に行われた。